8月9日から、フランスではついに衛生パスポートの運用が開始された。様々な施設への入場に際し、各自のワクチン接種完了や陰性テスト結果を証明するQRコードの提示が求められる。
私の生活圏では、街の中心にある大型ショッピングセンターや、職場の周辺にあるレストラン、子供を連れて行くスポーツ施設などで早速提示を求められた。一方で、今の所、個々の商店でのチェックはない。
フランスではTousAntiCovidというコロナ対策アプリが普及し、2000万人以上の国民が利用しているが、数クリックで必要なQRコードをスマートフォンの画面上に表示できるため、煩わしさはほとんど感じない。もちろん、印刷したQRコードも問題なく使用できる。
もしワクチン接種を完了していなかったとしても、実はそれほど困らない。というのも、フランスでは街の薬局で抗原検査が(公的社会保険制度に加入していれば今のところ無料で)受けられ、15分後に陰性結果が出ればショートメールですぐさまQRコードが送られてくる。ショッピングセンターなどの大型施設では、チェックゲートに検査用のテントが併設されているところも多い。
こうした衛生パスポートの提示義務化に先立って、フランス政府は、国外の駐在員や旅行者がEU加盟国以外でワクチン接種を受けた場合、国内およびEU域内で通用するパスに変換するシステムを作ると約束した。
その言葉通り、衛生パスポートの運用開始から1週間を待たずに、フランス外務省の公式サイトに特設ページが開設された。その説明によれば、必要書類をPDFで指定アドレスにメール送信すれば、後日QRコードが返信されてくるとのことだった。
例えば、旅行者に関しては、まずは8月22日までの入国者の申請を優先的に受け付けている。私の知人が申請したところ、たった2日でQRコードが返送されてきた。
フランス政府の発表している地図上では、EU加盟国、日本、アメリカなどを含むいくつかの国々は、「コロナウイルスの蔓延が抑えられ、懸念すべき変異株がない地域」を示す緑色で塗られている。
私がこの夏、スペイン領内の島に旅行した際には、EU版の衛生パスポート1つでほとんどコロナ以前のように旅行することができた。空路での移動における衛生パスポートの確認は、基本的には空港のチェックインカウンターで航空会社職員が行う。降機後の入国時には、現地機関によるチェックがスペインでは行われたものの、フランスではなかった。ちなみに、利用した2つの空港のどちらでも、出発者に対する有料の抗原検査サービスが整備されていた。滞在していたホテルでは、スペイン語よりもフランス語、イタリア語、英語を多く聞いたように思う。
しかしながら、衛生パスポートの導入には、依然として賛否が別れている。
パリでは毎週、衛生パスポートに反対するデモが繰り広げられている。メディア各社の調査によれば、フランス国民の概ね3割がこうした運動に理解を示しているらしい(積極的な「支持」となると数は半分ほどになるが)。この先、政府がさらに強く義務化を打ち出せば、フランス国民が真っ二つに分断されるという見方も出始めている。
こうした反対運動の参加者たちの実像を正確に把握するのは簡単ではない。各種メディアの街頭インタビューを見るだけでも、例えば、ワクチン未接種の医療従事者に対する雇用契約の凍結や破棄を問題視する人や、雇用者による労働者の健康状態への干渉に反対する人など、その主張は様々だ。ただ、そこに共鳴しているメッセージは、「個人の自由の侵害」であるようだ。
今フランスでは、社会における個人の責任と自由に再び焦点が当たっている。フランス政府の司法諮問機関である国務院のブリアード弁護士は、フィガロ紙への寄稿の中で、モンテスキューの「自由とは、法の許す限りにおいて行動する権利であり、それ以上でも、以下でもない」という言葉を引用しながら、真の「自由」とは、「公益」の下に、場合によっては法律で制限され得るものであることを、フランス人は理解しなくてはならないと説く。一方で、衛生パスポートの反対運動が掲げる「自由」の根底には、「人は、自らの他に立法者を持たない」という、サルトルの言説から切り取られた一節が見え隠れする。
コロナ禍という特殊な状況に、「自由の国フランス」の土台が大きく揺さぶられている。
執筆者プロフィール:
田畑俊行(たばた としゆき)
エンジニア。1983年兵庫県生まれ。京都大学工学部物理工学科を経て、東京大学大学院工学系研究科にて博士号(工学)を取得。その後、2013年に渡仏。原子力代替エネルギー庁電子情報技術研究所の研究員(ポスドク)を経て、現在はパリ近郊の半導体技術関連のベンチャー企業にて研究開発チームを率いる。