大手通信会社に在籍中に翻訳活動を開始、独立後はイギリスのスパイ小説の第一人者、ジョン・ル・カレ作品をはじめとして、フィクションからノンフィクションまで幅広く手がける筆者が、いま気になる書籍を紹介する。
イギリスの左派を代表する若手の論客、オーウェン・ジョーンズの2つの著作を訳した──『チャヴ 弱者を敵視する社会』と『エスタブリッシュメント 彼らはこうして富と権力を独占する』だ。
チャヴとは、イギリス労働者階級の低所得者層、とくにその若者たちを軽蔑することばである。人種差別や性差別に反対するリベラルな人々でさえ、チャヴをジョークのネタにすることはためらわないらしい。労働者階級が全体として軽んじられるだけでなく、そのなかで分断が進んで、蔑み合うような社会状況がどうして生じたのか。著者はその原因を1980年代の保守党サッチャー政権に見る。
サッチャーは、新自由主義を掲げ、国営企業の民営化や規制緩和を強力に推し進めながら、一時的な待遇改善で味方につけた警察権力を用いて、改革に逆らう労働組合を徹底的につぶした。「小さな政府」で公助を切りつめ、貧しい人々は努力が足りないから貧しいのだという自己責任の感覚を広めた。
本来労働者を代表するはずの労働党も、新自由主義の流れには逆らえず、むしろさらに推進して、「向上心のない労働者階級」を見捨てた。
そうしてできたのが、エスタブリッシュメント(支配階級)が富と権力を構造的に独占する社会だ。政治、経済、メディアを牛耳る有力者のネットワークは、民主制を「管理」し、自分たちの利益が脅かされないことに注力する。
階級闘争というと、ふつうは下から上というイメージだが、著者に言わせると、イギリスで巧妙な階級闘争を仕掛けているのは富裕な支配階級のほうである。それに見事成功していることは、苦しい生活に対する国民の怒りの矛先が、エスタブリッシュメントではなく、移民や生活保護受給者や公務員などに向いていることからもわかる。
社会活動家でもあるジョーンズは、何よりも労働者の復権を目指している。「最初の大きな一歩は、労働者が誇りや社会的価値の感覚を取り戻すこと」だ。
この2冊が書かれたのは、新型コロナウイルスなどなかったころだが、先日、イギリスでは移民に対する見方が変わってきているという記事を目にした。感染症の流行によって、医療や介護の従事者や清掃員など、社会基盤を支えるエッセンシャルワーカーの多くが移民であることが実感されたからだ。いまの世界で、ジョーンズの著作の意義は増しているように思う。
【執筆者プロフィール】
加賀山卓朗(かがやま・たくろう)
1962年愛媛県生まれ。翻訳家。おもな訳書に、『スパイはいまも謀略の地に』(ジョン・ル・カレ)、『ヒューマン・ファクター』(グレアム・グリーン)、『夜に生きる』(デニス・ルヘイン)、『大いなる遺産』(チャールズ・ディケンズ)、『チャヴ』『エスタブリッシュメント』(オーウェン・ジョーンズ/依田卓巳名義)などがある。