ハン・ガン著『少年が来る』(井出俊作訳、CUON)を紹介したい。近年さまざまなジャンルで韓国の小説が数多く翻訳出版されているが、ハン・ガンはそのなかでも抜きん出た作家だと思う。ひとりの女性の病みゆく心に深く分け入った代表作『菜食主義者』は、2016年、世界的に名高いイギリスの文学賞、マン・ブッカー賞国際部門を受賞した。
『少年が来る』は、作者の故郷である全羅南道光州市で1980年に起きた「光州事件」にもとづく短篇集だ。ちょうど40年前の事件だが、私の光州出身の知人のご両親も当時、催涙弾から逃げたというから、それほど昔の話ではない。
1980年5月、クーデターで前年末から軍を掌握していた全斗煥が、全国に戒厳令を敷き、野党指導者や旧軍部の有力者らを逮捕した。光州市では抗議する学生と戒厳軍が衝突、そこに一般市民も加わって大規模なデモとなり、火炎瓶が飛び交い、軍が市民に発砲するなど、騒乱で多数の死傷者が出た。市は軍によって封鎖され、情報も統制されていたので、事件の実態はなかなか外に伝わらなかった。
ハン・ガンとしても、いつか故郷のこの出来事について書かなければという思いがあったのだろう。集中して資料を読み込み、現場の取材を重ねて生み出したのが本書である。
『少年が来る』は、外から見た事件の叙述ではなく、巻きこまれた人々の魂の物語だ。遺体安置所で身内を探す市民の絶望、運ばれてくる遺体や怪我人の世話をする少年の当惑、事件後何年たっても消えない女性たちの心の傷、息子を失った母親の慟哭などを迫力の筆致で描き出し、他国の話でありながら、眼前に彼らがいるかのような臨場感がある。と同時に、いま香港やベラルーシで起きている民主化運動についても考えさせられる。
光州事件に興味が湧いた方には、映画『タクシー運転手 約束は海を越えて』もお薦めする。軍が包囲した光州に単身乗りこんで凄惨な現場の様子を報道したドイツ人記者の実話を、彼と行動をともにしたタクシー運転手の視点で描いている。この運転手役を演じたソン・ガンホの出る映画に、ハズレはない。
【執筆者プロフィール】
加賀山卓朗(かがやま・たくろう)
1962年愛媛県生まれ。翻訳家。おもな訳書に、『スパイはいまも謀略の地に』(ジョン・ル・カレ)、『ヒューマン・ファクター』(グレアム・グリーン)、『夜に生きる』(デニス・ルヘイン)、『大いなる遺産』(チャールズ・ディケンズ)、『チャヴ』『エスタブリッシュメント』(オーウェン・ジョーンズ/依田卓巳名義)などがある。