別の話題で書こうと思っていたのだが、やはり今月はこれ以外に考えられない。2020年12月12日、イギリスの小説家ジョン・ル・カレが89歳の生涯を閉じた。
「スパイ小説の大家」と呼ばれたが、決してそれだけの人ではなかった。ディケンズふうの古風な文体を操る名文家であり、イギリスでも最高の知識人のひとりで、社会の動向を的確に見きわめるすぐれたジャーナリストでもあった。たとえば、冷戦を象徴するベルリンの壁ができた2年後に、早くもそれを取り入れた出世作『寒い国から帰ってきたスパイ』(宇野利泰訳、早川書房)を発表している。冷戦が終わったあとも、アフリカを蹂躙するグローバル企業や、イラク戦争、軍需産業、オリガルヒ、ブレグジットなど、多彩なテーマで最後まで質の高い小説を書きつづけた。
とはいえ、なんといっても代表的な業績は、007シリーズの主人公ジェームズ・ボンドの対極にある、ジョージ・スマイリーというスパイ像を打ち立てたことだろう。いわゆるスマイリー3部作の『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』、『スクールボーイ閣下』、『スマイリーと仲間たち』(いずれも村上博基訳、早川書房)は、まさにこのジャンルの金字塔と呼ぶにふさわしい。名優を配した映画化やドラマ化もあって、世界じゅうにそのファンを広げた。
どこかに新たな原稿が残っていないかぎり、今年上梓された『スパイはいまも謀略の地に』(拙訳、早川書房)が遺作となる(原書は昨年刊行)。縁あって、小説7作と、本人による回想録、アダム・シズマンによる伝記を訳させてもらい、翻訳者としても、読者としても、本当にかけがえのない体験となった。世界情勢であれ、人生と向き合う態度であれ、翻訳の技法であれ、作品から学ばせてもらったことは数知れない。
伝記まで訳したので、自分の両親のことよりくわしく知っているはずなのだが、個人的に、ル・カレという人はつねに仰ぎ見る山のような存在で、すぐそこにあってもなかなか近づけない気がしていた。今後もずっと、たびたび作品を読み返しながら、近づいたり離れたりのつき合いが続くのだろう。そう考えると、今日の別れもそれほどつらくない。
【執筆者プロフィール】
加賀山卓朗(かがやま・たくろう)
1962年生まれ。翻訳家。おもな訳書に、『スパイはいまも謀略の地に』(ジョン・ル・カレ)、『ヒューマン・ファクター』(グレアム・グリーン)、『夜に生きる』(デニス・ルヘイン)、『大いなる遺産』(チャールズ・ディケンズ)、『チャヴ』『エスタブリッシュメント』(オーウェン・ジョーンズ/依田卓巳名義)などがある。