“リベラルの政治は「私たち」という感覚がなければ成り立たない。私たちは皆、同様に市民であり、お互いに助け合って生きたいという感覚だ。”(『リベラル再生宣言』)
政治哲学と政治神学が専門の米国のコロンビア大学教授、マーク・リラの『リベラル再生宣言』の一節だ。2017年に刊行された同書は、16年の米国大統領選挙で、民主党が推すヒラリー・クリントンが、ドナルド・トランプに敗れた理由を探るために著されたものだ。
リラは、民主党を支持する代表的な政治学者の一人で、本書は16年11月に、ニューヨーク・タイムズで民主党敗北について分析した寄稿をベースに、より深く掘り下げたのだという。
そしてリラは、「クリントンの敗北は、トランプが原因ではなく、民主党内にある」ことを示したのだ。
残念ながら日本では、リベラルという言葉が正しく理解されていない。冒頭の引用文を、「リベラルの」を「日本の」と変えると、多くの日本人が「これが政治の理想」だと膝を打つだろう。
つまり、日本社会では、アメリカで言うリベラル的な思考だけが、政治的な理想だと考えられている。
そして、我が国もまた、その政治の理想を失ってしまっている。
それこそが、09年の民主党による政権交代以来、日本の政治で混乱が続いている原因だ。
その真因は、どこにあるのだろうか。この十年間、様々な角度から考えて「解」を探していたのだが、同書に出会えて、ようやくそのヒントを掴んだ気がした。
リラは、共和党のレーガン政権以来、民主党は政策や政治哲学を見失い混乱し、「必勝!」と思っていた16年の大統領選挙に、敗れるべくして敗れたのだと指摘する。
レーガン政権は、「政治なんかの世話にならず、自分たちの暮らしを楽しめばいい。個人主義を極めれば、もっと幸せになれる。政府はその後押しをするだけ」と主張した。経済政策も、レーガノミクスと呼ばれる新自由主義を推し進め、政府は極力介入しない――。これらは、“小さな政府”と呼ばれた。
今風に言えば「自助」こそ幸せの源であり、政府もそれを後押しした。
一方の民主党は、そうした政治でこぼれ落ちていったマイノリティに注目した。そして、彼らにも平等の権利があり、彼らもアメリカ人だと訴えたのだ。
これを、リラは「アイデンティティ・リベラリズム」と呼ぶ。
つまり、個々人のアイデンティティを大切にする政治という意味だ。
元々のリベラルの発想から大きく逸脱したわけではない。だが、そこで民主党は、大きな過ちを犯した。
“特定の集団だけを他より「弱い」と恣意的に判断し、特別の配慮=中略=「弱い」とみなされなかった集団には何の配慮もされていないということになる”
すなわち、マイノリティを重視するあまり、マジョリティへの発信を怠ってしまったのだ。
その結果、民主党は、自由主義を謳歌している平均的なアメリカ人だけではなく、マイノリティの範疇に含まれない、ラストベルトと呼ばれる操業を停止した工場地帯で働いていた白人や、平均的な年収を得ている非白人の支持を得られなくなった。
いつしか政治の舞台からは、「私たち」という主語が消え、「私」という発想で政治を考えるのが当たり前になってしまった。
もはや、仲間のために頑張ろうという発想は、政治の舞台では廃れてしまったというのだ。
これらは、アメリカ社会の話として述べられている。だが、そのまま、日本でも同じ事が言えないだろうか。
若者を中心に経済的な成功者が増え、それにつれて個人主義が広がり、世の中のために何かするより、自分や家族を大切にすることに大きなウエイトを掛けても、社会的な批判を受けなくなった。それどころか、非正規雇用やシングルマザーの人たちの生活が苦しいのは、「自業自得」という考えが社会の底流に漂っている。
一方で、政府批判する人たちの多くは、マイノリティの大切さ(つまり、アイデンティティ・リベラリズム)を訴えるのだが、それはマジョリティにはならない。あるいは、政治家の個人攻撃ばかりをして、本来の政治の目的である「国民の生活を豊かにする」ために行っているのか疑わしい言動行動が目立っている。
だから、SNSで盛り上がったとしても、それは民主主義的な流れを生む政治活動、選挙には何ら影響を及ぼさない。
今から思えば、安倍晋三という政治家は、それを知ってか知らずか、日本人に「自分さえよければ、それでいいと考えるのは、悪いことじゃないよ」と教えた初めての総理だった気がする。無論、言葉では、「政治は、国民の皆様のため」と言うけれど、でも、「やっぱり、自分が一番可愛いし、一度手に入れたものを誰かに奪われるのは、嫌だよね」と、個人主義を後押しした。
気づくと、日本でも「誰かのため」「みんなのため」を真剣に考えて行動する政治家が、絶滅危惧種になってしまっている。
リラは、この危機的状況の打開策として、以下のような提案をしている。
“全体を見ない今までのやり方を捨て、新しい方法を取り入れなくてはならない。”
“どう主張すれば、多くの市民の賛同を得られるかを考えなくてはいけない。アイデンティティ・リベラリズムを市民リベラリズムに変える必要があるのだ。”