国内・翻訳ミステリ出版に長年携わり、大の横溝正史ファンでもあるフリー編集者が、独特の視点から「ヨコセイ」ワールドの魅力を綴る。
先日、特大白菜の2個1組があまりに安かったので、嵩と重さに往生しつつ持ち帰った。母ならきっと数セット買い込んで漬物にする。実家にはネジ式の釣り天井みたいな漬物器が幾つもあるが、いま手許にないので漬物化は見送り、その日から食べた食べた。体の半分が白菜になったんじゃないかというくらい。
さて、半分どころか頭の大半が横溝正史になっていた時期がある。積み上げれば軽く1メートルを超す角川文庫の多くが未読だったのを、ここを先途と読破した。かれこれ四半世紀か……あの頃は平和だったなと遠い目になる。
このたび、ここで書かないか、横溝正史の短編についてなんかどう、と声をかけてもらった。人さまの文章に茶々を入れるのは得意で、なりわいにもなっているが、正直作文は苦手である。従って身の程知らずもいいところだけれども、筆の立つ人ばかりでは却ってつまらんとお考えなのだろう。賑やかし要員としてやってみるか。以前でっち上げた「占領期の横溝正史」というレポートがちょっと気に入っていて、いつか拡大版を作りたいと思ってもいた。本稿をきっかけに、ヨコセイ再読にこれ努める所存である。
……というわけで、初読当時「大好きなおはなし」とメモっていた「青い外套を着た女」からいってみよう。
本作の持ち味は、なんといっても語り口に尽きる。非常にテンポよく、すいすい読める。そして矢継ぎ早に展開する話に黙ってついていけばいい。あっという間に幕となり、いやあ面白かったと呟くのだ。さながら短編映画を観ているよう、カツベン横溝正史の舌の冴えを堪能あるべし。
いわゆるboy meets girlもので、主人公はフランスから帰国したばかりの土岐陽三。仕立てのいいタキシード、ピカピカ光るエナメル靴、胸にさした黄色い薔薇――隆とした出で立ち(ちゃあんと意味があるのです)ながら手許は不如意、それでもケセラセラで暢気に構えている。美空ひばりの『東京キッド』が聞こえてきそうだ。
girlのほうは美樹という名で、「まかされなさいな」とさばけた面は見せつつ、「あたしを隠して」と曰くありげ。そこへ現れた悪党に陽三が一発お見舞いして、事の次第もわからぬまま逃避行が始まる。好漢には掩護射撃が得られるもので、半ソヴリンはずむ(「ボヘミアの醜聞」参照)と言わなくても運転手は猛スピードで追っ手を撒き、二人は暫し安穏の時を過ごすが……。
角川文庫『青い外套を着た女』(1978年)は9編収録で、表題作は2編目。中島河太郎の解説によれば「当時提唱されていた水谷(筆者註:準)のユーモア探偵小説の線に添った明朗篇」である。舞台は銀座、渋谷、麴町と来て日比谷で終わる東京の小説だが、土地勘がなくても全く問題ない。位置関係が重要だったり区と区の境目に建つ館が鍵になったりということもなく、架空の地名と思っていいくらいだ。ギャングに追われてカーチェイス、上海の共同租界にも似合いそうな筋立てである。
近日、日比谷公園へ行ってみたところ、健全さと開放感に満ち、夜が更けても辻君の御開帳――つまり、えー、行きずりの客を引いて灌木の茂みなどで事に及ぶ――となりそうな雰囲気ではなかったから、現況を知っていても読解の助けになるとは限らないのである。作中に出てくる「日比谷公園の入口」とはどこか、目星をつけた日比谷口は立派だったが、入ってすぐの場所に派手派手しい宝くじバスが鎮座しており、とんだ艶消し。そんなこともある。
同短編集収録作の多くに共通するのは「結婚」という要素で、当時読者を惹きつけるテーマだったのかと思わせる。恋愛の結果としての結婚というより、結婚の前提として恋愛が描かれることもある、そんな印象だ。先ごろ発見が公表された小栗虫太郎の新聞連載小説『亜細亜の旗』(1941年)の主題もやはり結婚だという。
一般に娯楽小説はターゲットとなる読者層の関心事に寄り添うべく書かれ、著者に経験があれば良いことも悪いことも倍増し以上に脚色されうる。「地に足がついている」度が高いほど素晴らしいと考えるのは個人の自由だが、フィクションは絵空事でよい。かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし――ややもすれば人生の墓場と喩えられながら、結婚という営みはこの先も絶えることなく続けられよう。それには、創造された物語の力も与って大きいのかもしれない。こんな出会いがあれば、と読むたびに夢想するのだから。
執筆者プロフィール:
伊藤詩穂子
編集者、校正者
京都府生まれ。豊中で阪神淡路大震災、東京で東日本大震災に遭遇。現在、癌サバイバーを目指して働き方改革実践中。