「週刊文春」で昨年春から連載していたノンフィクション『ロッキード 角栄はなぜ葬られたのか』が、11月14日発売号で最終回となった。
私にとって初めてのノンフィクション作品だった。
それまでは、小説という手法を使って、社会の影や矛盾、歪み、そして不条理といったものをあぶり出そうと格闘してきた。時にフィクションだけが、真実に迫れることもある――。そういう信念も持っていた。
それがなぜノンフィクションに挑むことになったのか。
現実に起きた出来事や事件を足がかりに、小説化した経験はある。事実を調べ、関係者に取材した上で、フィクションとして飛躍させ、その出来事の本質を探る試みだ。
だが、あまりにも有名なロッキード事件を小説で描くことは、かえって事件の本質を不明瞭にして曇らせてしまうことになりかねない。何より、当事者である田中角栄をはじめとする人たちの素顔に迫ることでしか、事件の検証はできない。
しかし、すでに事件から40年以上が経過し、角栄を含め、“主要登場人物”の大半は鬼籍に入っている。また、時間経過が、存命者の記憶を曖昧にさせているだろう。ノンフィクションを構成するに足るだけの取材が、可能なのだろうかという懸念があった。
一方で、現在までに残された資料や、毎年のように刊行される角栄とロッキード事件の検証本は膨大にある。
そこで、取り組む前提条件として、「既存の資料を、今までとは異なる小説家的な視点で分析し、そこから新たな仮説を構築するというスタンスで、角栄と事件を再検証してみよう」と設定し、連載を決断した。
今だから言えるが、資料読みと存命者の取材を開始してまもなく、この事件の複雑さと関係者の人数、未解決な部分の多さに驚いた。また、先入観に邪魔されて、事件の構造と問題点を把握するのに苦労し、執筆の段になって、どのように切り込めば、漠然と膨らみ始めた疑問や新しい視点を、読者に分かりやすく提示できるのかにも苦戦した。
ノンフィクションである以上、事実の尊重や、表現方法に至るまで、小説とは明らかに異なる執筆の手法を見つけ出すことにも頭を悩ませた。
しかし、そんな心挫けそうになる私を救ってくれたのもまた、存命者の方々の熱心な証言だった。
もう40年以上も前の話なのに、取材に応じてくれた関係者は、まるで昨日のことのように当時を振り返ってくれた。今までメディアの取材にほとんど応じなかった方に協力を得られたことも、励みになった。
結果として、ロッキード事件の従来の解釈が、いかに社会の偏見と思い込みに満ちていたかが浮き彫りになった。
誰かの汚名をそそぐことを目的にはしていなかったが、実際には、これまで伝えられてきた事件の構図は崩れたし、現在の法廷で裁けば被告人の多くが、本当に有罪だったのかと疑わざるを得ない事実が多数表出した。
はたしてロッキード事件とは何だったのか。それについては、来春予定している単行本の刊行までの間に、さらに分析を重ねたいと思っている。
常々、事件や事象について、懐疑的であるべきだというのが私の信条だ。ロッキード事件に取り組んでみて、それがいかに重要なのかを再確認した。
過去に起きた事件を再検証する時には、それまでの事実を肯定的に捉えてはいけない。
一番必要なのは、ゼロから、いやすべてを否定的な視点で捉えるぐらいでなければならない。
それでも、真実の全貌には届かないかもしれない。
しかし、先入観によって決めつけられた誤解を解くことはできる。
それこそが、事件を検証する意味であり、今起きていることを探る時に忘れてはならない視座でもあるのだ。