寝ても覚めても新型コロナウイルスの話題で持ちきりだが、その最中の3月11日から13日まで、久しぶりに東日本大震災の被災地を巡った。
来年で10年という節目を迎えるのに合わせて、震災直後に書いた連作短編の続きを発表しようと考えたからだ。震災が発生した4ヶ月後から、仙台市をスタートし、岩手県釜石市まで北上する定点観測を続けている。今回は、3年ぶりの観測だった。
震災から9年。「もう」と感じる人もいれば、「まだ」と感じる人もいるだろう。
この間定期的に、被災した沿岸部を3、4日掛けて巡ってきた者として、地域格差が鮮明になってきたのが、一番印象的だった。
1000年に一度と言われた震災後の対策として、まず優先されたのは、同規模の震災が起きたときに備えて、被害の大きかった沿岸部に防潮堤を建設し、さらに嵩上げすることだった。9年の間に、それらの対策はほぼ完了している。
だが、久しぶりに被災地を巡って目の当たりにしたのは、生活の場としての日常が取り戻せていない現実だった。
生活の場を取り戻すために最優先すべきは、住居でも集客施設でもイベントでもない。「仕事」だ。
水産業や林業、農業という第一次産業が多いエリアは、未だに現況復帰には至っていない。水産加工場などが新設された場所もあるが、産業が復興したり、活性化のために新しい産業やビジネスが生まれた痕跡を探したが、見当たらなかった。
目立つのは、飲食店を中心とした都会風の集客施設程度だ。
もはや、震災復興という言葉すら使いにくい時期を迎えて、この地域でどんな産業政策を推し進めることができるのか。そのヒントを掴むことはできなかった。
一方で、一部自治体では、様々な支援を活かして新しいまちづくりを目指そうという気運が高まっている場所もあった。
そうした熱気の差や、再出発に向けての準備が形になっている場所と、そうでない場所との差は、沿岸の路を走り続けるだけで明確に見えてきた。
震災遺構には、これまでと違う印象を受けた。
宮城県気仙沼市では、保存を決めた県立気仙沼向洋高校が、昨年3月に「気仙沼市 東日本大震災遺構・伝承館」として、一般公開された。沿岸部にあったにもかかわらず生徒は皆、難を逃れたが、被害は甚大だった。
その被害の凄まじさを記憶するため震災遺構として残すことは、以前取材で訪れた時に知った。それが、単に遺構を保存するだけではなく、あの時何が起きたのかを映像で伝えたり、校内を見学して体感できるパビリオンとなっていた。
当時の状況が残された館内で流される映像を見るだけで、目頭が熱くなる。大切な人や場所を失っても、それでも生きていくことの大切さを伝承館は静かに伝えていた。
岩手県陸前高田市の一本松で知られる高田松原には、「高田松原津波復興祈念公園」と「東日本大震災津波伝承館」がオープンした。公園内には、国営の追悼・祈念施設もある。いずれは被災者の慰霊のための国家的な祈念の場となるのだろうか。
その公園の壮大さと神殿を思わせる雰囲気に、違和感を抱いたのだが、それは通りすがりの旅人の偏見かもしれない。
いずれにしても、被災地は10年という節目に向けて、「どのように産業を興すのか」「震災の教訓をどう伝えるのか」という大きな命題への指針を示してほしい。