2018年5月から2019年11月までの「週刊文春」に連載した「ロッキード 角栄はなぜ葬られたか」を大幅に加筆修正した単行本『ロッキード』を上梓した。
連載中から、小説家の看板を上げて15年以上も経つのに、なぜ、今更ノンフィクションを書くのか、という質問を多くの方から戴いた。
ロッキード事件をテーマに著すなら、ノンフィクションで挑む以外の選択肢はないと思っていた私には、意外な問いだった。
従来から、現代社会で起きている、あるいは起きるであろう事象を取り上げ、小説を書いてきた。そのために、その事象について資料を調べ、関係者に取材をして、現実に起きていることの真相や、将来懸念される危機を、フィクションの手法で描き、警鐘を鳴らしたい――。そのため、かなり細かい部分まで取材をしても、それをそのまま描かず、小説に昇華させるという手法にこだわってきた。
なぜなら、ノンフィクションでは射抜けない真実が、小説では炙り出せるからだ。また、その事象を多くの人に興味を持ってもらうためには、エンターテインメント性の高い小説の方が効果的でもある。
尤も、過去の作品で、私は現実に起きた事件をそのまま小説化したことはない。実際に起きた事件をきっかけにしても、社会現象を踏まえた上で、必ず架空の世界で、物語を紡いできた。
私が小説を書くのは、世間に知られた事件や現象を面白おかしく膨らませるためではない。小説でしか描けない何か(おそらくは真実)を明確にしたいからだ。
だから、もし現実に起きた出来事を描き、その謎に迫りたいのであれば、迷いなくノンフィクションを選択する――。私にとっては、当然のことだった。
しかし、歴史小説や実録、あるいは人物評伝というジャンルが、小説の中にはある。これらも、小説としてNGな訳ではなく、多くの傑作が存在している。但し、私がそうした分野の小説を書く場合、条件がある。それは、入手できる情報が少なく、ノンフィクションでは描ききれない、つまり、小説家の空想力や妄想力を用いないと、読者に、物語を伝えられない場合だ。
では、ロッキード事件はどうだったか。
事件発覚から、45年が経過し、既に「歴史」の領域に入っている。
だが、事件に関する書籍が長年に亘って幾多も発表され、入手可能な資料も多数存在する。しかも、関係者の中には、存命な方もいる。だとすれば、ノンフィクションとして綴る以外に、選択肢はない。
戦後最大の疑獄事件に新たな光を当て、従来とは異なる見解を述べるためには、私にとってノンフィクション以外の選択肢はなかったのだ。
膨大な資料を読み解き、生存者に会ってきたが、手にした断片をつなぎ合わせるだけでは、もはや「謎解き」が出来ない場面が何度もあった。そんな時は敢えて「小説家の妄想力」を起動し、手に入らない断片から考え得る可能性を、様々に描いた。
それは小説的な派生ではなく、どこまでも事実を読み解くための手法としてのアプローチだった。
妄想を膨らませすぎず、だが、目の前にある事実に囚われすぎない――。
着手から、5年近い年月を悪戦苦闘した結果、ノンフィクションという枠組みの中で、これまで小説にこだわってきたからこそ得られた成果を上げられたのではないか。
細やかな手応えを、今は感じている。