真山メディア
EAGLE’s ANGLE, BEE’s ANGLE

テーマタグ

コラム

東大生日記 diary2『君たちはどう生きるか』を読んで(執筆者:文系I)

真山メディア編集部

近頃の若者は、何を考えているのか――。
未来のエリート候補と言われている東大生の“今”を、彼らの言葉で綴る。
そこから覗くのは、希望か、絶望か。

執筆にあたり、各人の共通初回題材として『漫画 君たちはどう生きるか』(マガジンハウス)を読み、考えを述べてもらった。
本書は、1937年に出版され、時を経て漫画版が異例のベストセラーとなっている。戦前に書かれた本が、なぜ今、現代人の心を捉えたのか。本に込められたメッセージがこれからの未来を担う彼らにどう受け取られているのかを探る。

■diary2『君たちはどう生きるか』を読んで

一読した時、私はこの本に非常に共感した。
そうだ、人間はそうあるべきだよなと強く感じた。
特にそう感じたのはコペル君が友達を裏切ってしまって罪悪感に苛まれることや、コペル君のお母さんが困っているお婆さんに手を差し伸べられず何度も悔やんだというエピソードである。
この二つに共通する、世の中で善とされていることをできなかったら、至らない自分を責めて反省して、善い人間になっていくべきだという話に、人が生きていくための理想を見た気がした。
この考え方を理想的すぎると批判する人はいるだろうが、私はちゃんとこの通り生きていこうと思った。

ところが、何度もこの本について考えるうちに、この二つのエピソードは、根本的に異なる“善”について語られているのではないかと思い至った。
友達が上級生にいじめられているときに立ち向かって庇うことと、階段を上るのに苦労しているお婆さんの荷物を持ってあげること。どちらも広い意味では、善とされる行為なのだろうが、二つの点で異なる。
一つ目は、対象が身近な人かどうかで、二つ目は、自分をどれだけ犠牲にできるか、だ。この二つの違いに気づいたことは私にとってはとても重要なことだった。
なぜなら、私は二つの善をどちらも最大限遂行しなきゃいけないと思ったために、疲れ果て、生きる意味を見失ってしまった気がしていたからだ。

元々私は、思いやりの大切さすら分からなくて想像力のない子供だった。
ある日、何気無く残したご飯を、お母さんが夜中に悲しい顔で捨てているのをこっそり見て初めて、自分が気づいていないところで自分のせいで苦しむ人がいるのかもしれないと知った。
それ以来、ご飯を残さなくなったのは勿論のこと、自分の言動を省みて、これを相手はどう受け取っただろう、もしかしたら傷ついているかもしれないなどと後悔を重ねるようになった。
そして、誰と会う時でもそんなことが気になり、人と会うことそのものが緊張を伴う息詰まったものになってしまい、ついには人に会うことが怖くなっていた。

また、自分のせいでなくても困っている人のために自己犠牲をする善い人間にならなくてはとも思っていた。
やがて、正義感が強いとか優しいとか褒められて育つ中で、常に誰にでも「善い人」でいなくては、自分でないと思い込むようになっていた。
人手不足で困っている人がいたら、私でよかったらと言うようになってしまった。慣れない東京での独り暮らしでキツい中でも、一旦引き受けた以上、頼まれ事は、きちんと成し遂げるべき、と随分無理をした。
それでいて十分な見返りがない。他の人は平気で頼みを断ってくる。私が困った時は、助けてあげた人がきっとサポートしてくれるはずと期待してしまって何度も絶望し、人を信じるのが嫌になっていた。
そんな風に嫌になる自分のことも否定していた。

本書を読んだ後、東京から距離を置いてみようと帰省して、色んな仕事の連絡がSNS上で鳴り響くのを無視し、家族と笑っていた食卓でふと、今この瞬間が楽しいと思った。
同時に、自分が東京で楽しいと思える瞬間にほとんど出会えていないことに気がついた。私は近しくもない無数の大勢に気を遣いすぎて、何の生き甲斐もないところで自分を犠牲にしてきた。
この本を読んだ直後は、また自分に「社会と他人に貢献できる善い人」を課そうとしていた。
でも、私はそもそもボランティアとか奉仕そのものに喜びを感じたことのない人間だったのだ。
率先してボランティア活動ができる人を、心底尊敬する。でも、私は聖人になれないんだと思う。コペル君のお母さんみたいにありとあらゆる対象に無限の善を振りまくと疲れ切ってしまう。

私は近しい人の笑顔が大好きだ。小さい頃からお小遣いの半分以上を友達と弟へのプレゼントに使ってきた。彼らのためならリターンがなくても、彼らが喜んでくれるかなと考えるだけで嬉しくなれる。なぜかと言われると分からないけど、近しい人のためならどこまでも自己犠牲ができる気がする。
むしろ自分のために踏ん張ることの方が難しいくらいに、彼らの笑顔を頭の中で描くと痛みの感じ方も全然違う。弟のためなら命も辞さないと中学生の頃から心に決めている。
だから私を、自分の近しい人に使っていくべきなんだと思った。対象の範囲をぎゅっと狭めて、でもその範囲の中ではどんな犠牲も厭わない人間でいたい。
これは人間としては理想的ではないかもしれない、社会的には足りないかもしれない。でも、そうすることで初めて私は生きていける。
私のようなキャパシティの小さい人間はどんなに願ったってできないことがある。
理想を教えて貰っても現実との狭間で苦しくなる。二つの“善”のうち、身近な人の苦しみを和らげ、笑顔を増やすことだけ、それだけなら頑張れる気がする。
もう片方を頑張ることから降りる分、コペル君のような立場になったら真っ先に友を庇う、それだけ全力で自分を差し出せる人間になるから、許して欲しい。

私は本の教えよりも劣った人間になると決めた。自分の人生を、大切な人だけのために使いながら生きる。そう決めた自分をちゃんと応援できる自分でありたい。
【文系I】

あわせて読みたい

ページトップ