読書の大きな喜びのひとつは、日常生活からかけ離れた人や物や考えに接することである。いながらにして、はるか昔のロンドンの街を歩き、ドイツの哲学にふれ、ラテンアメリカの一族の物語に胸躍らせ……つまり、「異世界」に遊ぶことができるのだ。
そして「異世界」は海外だけにあるわけではない。たとえば、わが国の平安時代。『定家明月記私抄』とその続篇(いずれも堀田善衛、ちくま学芸文庫)は、平安末期を代表する知識人で新古今和歌集の撰者、藤原定家の日記『明月記』の読みどころを紹介した作品だ。これがじつにおもしろい。もとは漢文で書かれた日記を抄訳しつつ、統治の主体が公家から武家に移行していく時代背景や、当時の風俗、人間模様、そしてそれらに対する感想や考察を書き添えていて、興味が尽きない読み物になっている。
そもそも定家の父親の俊成に約27人の子供があり(「約」というのは、娘とされていたひとりがじつは孫だったという説があるため)、定家自身にも27人の子女がいたというから驚く。この家族関係ひとつをとっても、SFの設定のようである。現代の婚姻制度など影も形もなかった時代だから、当然のことかもしれないが。
さらに感じるのは、いまとは人間の五感のバランスがまったくちがうということだ。現代は五感のなかで明らかに「視覚」が優位だけれど、昔は家のなかも暗いし、夜となれば闇一色だから、「視覚」が活躍する場は相対的に少なかったのだろう。「聴覚」でいえば、たとえば和歌の夏の風物詩であるほととぎすは圧倒的に「声」の存在だし、秋になると衣を打つ音が余情をたたえる。「嗅覚」の例をあげれば、春の到来を告げる梅はまず見るものではなく香をかぐものだった。そこで定家に次のような歌がある。
梅の花にほひをうつす袖の上に軒もる月の影ぞあらそふ
梅の香(嗅覚)と月の光(視覚)が袖の上で見事に競合・融合している。新古今は技巧偏重という評価もあるが、これなどは技巧に見えて、じつはいまとちがう五感のブレンドが自然に表現されているのかもしれない。『明月記』で、定家はふだん、体の具合が悪いとか出世が遅いとか世俗的なことばかり気にしている。しかし本職の歌となると、これほど玄妙で美しい世界を詠み上げるのだから、すばらしいというほかない。
【執筆者プロフィール】
加賀山卓朗(かがやま・たくろう)
1962年生まれ。翻訳家。おもな訳書に、『スパイはいまも謀略の地に』(ジョン・ル・カレ)、『ヒューマン・ファクター』(グレアム・グリーン)、『夜に生きる』(デニス・ルヘイン)、『大いなる遺産』(チャールズ・ディケンズ)、『チャヴ』『エスタブリッシュメント』(オーウェン・ジョーンズ/依田卓巳名義)などがある。