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発言

『正しさを疑え!』第6回
試される「国家」の存在意義

真山 仁

学生と話をすると、「国家に、どんな意味があるのか。自分たちが現役世代になったら、国家のない社会が到来している気もする」という発言を時々耳にする。
それは、痛烈な政府批判としての発言かと思いきや、当人たちからは「批判する価値も感じない」と言われる。
政治への無関心が広がる一方で、社会に漠然とした危機感を持っている人は、SNS上での発言や情報に右往左往しているように思えてならない。その根底で彼らが抱いているのは、国家危機と言うより、自分たちを騙していると思い込んでいる為政者やエリート、インテリたちに対する怒りだ。
なぜ、社会に不安や不満を抱いているのに、その原因を国家の有り様に求めないのか。それは、現代社会ではあまりに国家という枠組みが希薄になっているからではないだろうか。

国家とは、多くは生まれ育った場所であり、生活の基盤を指すはずだ。
そして、国家は、国民の生活を維持するために、様々なサービスを提供するだけではなく、外敵を防いだり、産業を興し繁栄させ、国民が不慮の出来事で自立が難しい場合は支援もする。公衆衛生的な側面では、疫病が広がらないための衛生管理から、一旦疫病が発生した場合は、速やかに対処し、国民の生命を守ってくれる存在でもある。
だが、戦後75年も経つうちに、日本国は、世界でも最高水準に近い生活レベルと社会制度が整ったため、自分たちが国家に守られているとか、支えられているなどと感じる機会が減ってきた。
だから、冒頭のような発言をする学生が出現するのだろう。
「国家」の存在を意識しなくて良い現代社会は、かつて国民は国家に命を捧げ、その繁栄に努めるという全体主義から戦争に突入した日本にとって、まさに理想国家を築き上げたことになる。

しかし、外敵要因や予想していなかった出来事で、突発的に国民生活が揺さぶられる時がある。そんな時、国家は迅速かつ的確に問題を解決する――。
いわば、見えなくなってしまった国家という庇護者が姿を見せなければならない時である。
2020年は、まさにそんな出来事が頻発している。
厳密には、前年の大晦日ではあるが、企業のトップでありながら、重大な背任行為を犯したとして逮捕された人物が、官憲の目を盗み国外逃亡を果たし、逃亡先で日本の捜査機関を強烈に批判した。
次いで、米国がドローンを使って、イランの軍司令官を暗殺するという出来事が起きる。そして、今まさに深刻化している新型コロナウイルスの感染拡大だ。
いずれの出来事も、国家が「危機」として捉え、対処しなければならない甚大な”事件”だ。
だが、その全てで、国家を運営する政府の対応は、後手に回った。
さらに言うならば、途方に暮れて、なす術を見つけられなかった。
罪を犯した者の、国外逃亡を阻止できない国が、法治国家と言えるのか。
エネルギー資源を中東に頼る日本が、いくら同盟国とはいえ米国の“蛮行”に対して、指をくわえたまま踏み込んだ道義的なコメントをしない。
どう考えても、「あんな暗殺おかしいのに」という国民の違和感に、政府は答えず、未だに、歯切れが悪いままだ。
そして、新型コロナウイルスに至っては、「まさに、国家の危機管理が試される時」だったはずだが、国会では、総理の選挙違反疑惑ばかりが注目され、刻一刻と感染者が増えるなかで、ワクチン開発への指示も的確な予防策も打ち出せない。

この2カ月で、「国家に、どんな意味があるのか」という問いに、答えられなくなった日本。そんな国に未来はあるのだろうか。

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