世の中の出来事に、完全無欠の「正しさ」や、「間違い」は存在しない。
概ね正しさとは、行動の前提であり、大義名分だ。
そして、歴史書で正しいと肯定されるのは、為政者の行為だ。なぜなら、歴史書の大半は、勝者が自らの正当性を主張し、後世にその正しさを残すことが目的であり、だからこそ「正史」という皮肉な言葉で語られる。
では、敗れ去った者たちは、「正しく」なかったのだろうか。
いや、判官びいきの日本では、敗れた方にこそ、義はあったと考える傾向がある。「悪貨が良貨を駆逐する」というたとえがあるように、悪い奴ほど生き残るのが世の常だからだ。結果的には、受け手が正しさを選ぶようになる。
だから、真の正しさを存在しにくいのだ。
とは言いながらも、人にはそれぞれ価値観や主張があり、概ね衝突とは、自陣の「正しさ」を勝ち取るために起きる。だから、声高に「正しさ」を訴えるのは、考えものだ。
だが、ある時を境に、「正しさは我にあり」と訴える人が増えてきた。ある時とは、東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所の事故が発生した2011年3月11日だ。
三陸沿岸を度々襲った三陸沖の地震の教訓から、同じ規模の津波が起きても耐えられる防潮堤を作ったはずなのに、それを越える津波が襲ってきた。
さらに、絶対に安全だと言った原発で、事故が起きた。
こうした甚大な被災について、一部の人から「私たちは、騙された!」という声が上がったのだ。
そして、津波を予想できなかった政府や、原発事故を起こした東京電力を悪だと決めつける人が一気に増えた。
だが、災害は常に人知を超えて起きるもので、東日本大震災以降に発生した地震、集中豪雨、そして台風被害からも、それを読み取ることができるはずだ。
誰が悪いのかが議論される話ではないのは、明らかだ。
賢いと信じていた専門家や政府高官が、みな甚大な被害を前に途方に暮れて会見に臨んだ姿を目にした瞬間、多くの国民は「こいつらは、今まで偉そうにふんぞり返っていたが、本当は無能で何もできない奴らだったのだ。そのくせ、自分や家族の安全はちゃっかり確保しているに決まっている。だとしたら、ますます許せない!」と怒りをぶつける。
あるいは、「原発は安全だと言っていたのに、史上最悪と言われる事故が起きても、手をこまねいているだけで、収束できなかったじゃないか。自分たちは東京電力に嘘をつかれて、命を脅かされていたのだ。絶対に、許せない!」という憤りが、電力事業者に集中した。
地震の専門家も政府高官も、東電も皆それなりに責任はある。
だが、「未曾有」、「1000年に一度の大災害」と言われるほどの巨大地震の前では、所詮人間の叡智など、取るに足りないのだ、という冷静かつ俯瞰した視点をもって、あの震災を考える人は皆無だったように思う。
実際、微力ながら、震災当時から現在まで、前記のようなことを様々な場所、機会で私は繰り返しているが、「じゃあ、誰が悪いんですか」とか、「私たちが何か間違っていたんでしょうか」という疑問をぶつけられた。
被災することに、善悪も、正しさも、間違いもない。我々は自然には勝てないという事実を噛みしめるだけだ。
災害で大切な人が命を落としたり、自宅から離れて暮らさなければならなかった人たちにとって、怒りの矛先を向ける相手が必要だった。それが、為政者や巨大電力会社だったのだろう。
また、現代の日本では、自分を常に正しいとされる側にいたいという防衛本能が、社会に蔓延している。その防衛本能が、SNSという拡散マシーンに乗って日本中を覆い尽くし、気が付けば、誰もが「私は正しいよね」という強迫観念に囚われてしまっている。
だが、「正しさ」に縋るのは、やめるべきだ。
それは、なぜなのか。では、どうすればいいのか――を、この連載で具体的な事例を挙げて考えていきたい。