前回、城の本質は敵兵を殺傷することにあると書きました。言い換えれば、城は軍事施設であり、他勢力を仮想敵として、それに備えるための戦術と戦略に基づき築かれるということです。
ここで戦術と戦略の違いを説明しておきますと、普通は「プロイセンのクラウゼヴィッツが……」なんて始めるのでしょうが、そんな崇高な話ではありません。私の言う「戦術」は、城門がなぜそのような形になっているのかや、なぜその丘の上に城を築いたのかといった、その城自体の構造に着目するミクロな視点を念頭に置いています。一方、「戦略」と言うときは、築城者が一定の領域内で、地理的に個々の城をどのような目的で築いたのかという、地図レベル・勢力レベルでのマクロな視点を念頭に置いています。
今回は、謎解きをするために必須の、ミクロとマクロの視点のうちのマクロについて、詳しくご説明しましょう
まずは、山中城(静岡県三島市)と韮山城(静岡県伊豆の国市)(注1)の例で考えたいと思います。山中城は、小田原城(神奈川県小田原市 1454年頃築城)を本拠地とする北条氏(注2)が1560年前後に築城したとされ、韮山城は北条早雲が1491年頃に築城した城です。3つの城の位置関係を地図で見てみましょう。
これは、1575年頃の勢力をイメージした図で、地図の青丸が北条氏の城であり、赤丸が北条氏以外の城です。戦国時代において、駿府城のある旧駿河(するが)国は、今川氏、武田氏、徳川氏が勢力を持ち、躑躅ヶ崎館(つつじがざきやかた)(注3)や甲府城のある山梨県は、武田氏や徳川氏が勢力を持っていました。一方の北条氏は、1550年頃には、旧伊豆国(現静岡県の伊豆半島)、相模国(現神奈川県)を押さえ、武蔵国(現東京都、埼玉県)の大半に勢力を持っていました。
この地図を見て、それぞれの城が何のために造られたか分かりますか? 自分が北条氏の当主で、周囲から攻められてきたときの対策を練っていると想像してください。まずは、本拠地の小田原城から一番近い駿河の他勢力に対してどう備えるか考えてみましょう。
駿河の他勢力が自分の領地に侵攻するならば、隣接する伊豆国か相模国になるのではないでしょうか。戦国時代には輸送機や大型船舶はありませんので、基本的には陸上を進軍、つまり、街道を通って攻めて来るはずです。
そこで、敵から本拠地の小田原城とその東に広がる自分の領地の相模エリアを防衛するためには、小田原城の南西の街道沿いに城を築くのがいいという結論に達します。一方、伊豆国を防衛するためには、その北側の街道沿いに城を築けばいいと考えるでしょう。
そして次は、より具体的にどこに城を築くのがいいかという議論になるでしょう。ここで、山中城、小田原城、韮山城の関係を見てみます。
空中写真で見ると、小田原城のすぐ西には伊豆半島から続く山地が南北に走っていることが分かります。つまり、陸上しか進軍できない敵のルートは、この山地を越えるための峠道に限られます。一方守る側の視点からすれば、峠道は標高差や道幅を活かした防衛拠点を築きやすいという利点もあります。こう考えると、小田原城より西の峠道に城を造るのがいいのではないかという結論に至ります。
戦国時代には航空写真や精緻な地図がなかったので、実際にそういった検討がなされたかどうかは分かりませんが、山中城は、上記の結論に沿うかのような立地になっています。小田原城と山中城の間に、白い線が一本見えると思いますが、これが当時の主要街道である東海道です。山中城は、この線の上、つまり、小田原城から西の山地を越えて三島市に至る東海道の途上にあり、逆に西の他勢力が東海道を通って小田原城に攻め入るには、山中城を必ず攻め落とさないといけない立地になっています。
また、韮山城は、一枚目の写真で見るとより分かりやすいですが、その北側は平地部で、南側は平地が急に収縮し、伊豆半島の山地が広がっています。つまり、韮山城もまた、山地に入る峠道を押さえる立地にあることがわかります。これは、伊豆国の大半を占める伊豆半島に通じる街道を押さえ、侵入するにはこの城を落とさないといけないように考えられたものでしょう。
さらに、山中城と韮山城をこのように配置することで生まれるシナジーもあります。2つの城は、直線距離で12kmしか離れていません。仮に駿河の他勢力が、小田原城を目指すため、山中城を攻め落とそうとしたらどうなるでしょうか。山中城を攻めるには、韮山城や北条氏の軍勢に背後を突かれないように、あらかじめ韮山城を攻め落とすか、せめて包囲して出てこられないようにしておく必要があるでしょう。つまり、山中城と小田原城を攻め落とすには、韮山城対策の兵力も持っている必要があります。
現地を見に行けば分かりますが、これは相当の経済力(軍資金)がないと困難です。加えて、山中城や韮山城を包囲しても、相模国や武蔵国、伊豆国といった北条氏の領土から援軍が来るわけですから、そこも念頭に置いておかねばなりません。北条氏と戦うにはいかに経済力が求められるかがお分かりいただけるかと思います。
なお、小田原城を攻め落とすまでのミッションをやってのけた唯一の人物が、豊臣秀吉です。豊臣秀吉は、北条氏との戦い(いわゆる小田原征伐)で20万人の大軍を動員し、実行しました。豊臣軍の主力は東海道を進んで小田原城を目指しますが、その過程で山中城と韮山城を同じタイミングで攻撃します。山中城は豊臣勢の大軍によって1日で陥落しますが、韮山城は陥落せず、豊臣軍は韮山城を包囲するとともに、小田原城に進軍します。
上記の通り、山中城と韮山城にどう対処すればいいかは、理論的にはシンプルに答えを得られますが、現実に20万人を動かす指揮命令系統を構築し、各地で同時に戦闘を行い、補給もするのはとんでもなく難易度が高かったでしょう。これには、豊臣氏がそれまで実行してきた多くのプロジェクト(四国征伐、紀伊征伐、九州征伐等)の経験が生きたのではないかと思います。
少し話がそれましたが、以上のように、領地を他勢力からどのように防衛するかについて、地理的な観点から戦略を練り、城を築く場所を考えるというのがマクロな視点です。城巡りをしていると、どうしても個々の建物や構造物に目が行きますが、まずはこのマクロな視点を持って城がなぜそこにあるのかを考えると、城巡りの楽しさは倍増します。
次回は、城そのものに着目するミクロな視点について、彦根城を例に挙げてご説明しましょう。
注1:山中城は、関東近郊では最も整備されている城址の一つで、天守がない城巡りデビューをされる方にはうってつけです。障子堀と言われる独特の堀や、東海道を南北に挟む郭(くるわ=土塁や堀に囲まれた一区画のこと)といったキャラ立ちした特徴を見ることができますし、天気がいいと富士山と堀というインスタ映えする写真も撮れます。一方、韮山城は、山中城に比べると遺構は少ないものの、戦国時代の山城の風情を多く残す高い土塁や郭が見られます。
いずれも三島駅から公共交通機関で訪問できますので、是非セットで見ておきたい城址です。山中城は、三島駅からバスで一本、韮山城は、三島駅から伊豆箱根鉄道で韮山駅まで行き、そこから徒歩20分の韮山高校の裏手にあります。
●山中城跡公園の紹介(一般社団法人三島市観光協会)
https://www.mishima-kankou.com/spot/282/
●韮山城跡の紹介(伊豆の国市役所)
https://www.city.izunokuni.shizuoka.jp/bunka_bunkazai/manabi/bunkazai/20140925.html
注2:北条氏は、「下克上」の代表例としても有名な北条早雲を初代とし、豊臣秀吉に滅ぼされるまで五代にわたり関東地方で勢力を拡大した戦国大名です。鎌倉時代の執権北条氏と区別して後北条氏とも言われます。
注3:躑躅ヶ崎館は、武田勝頼の代に移転されるまで約60年間、武田信虎・信玄・勝頼の三代にわたって甲斐武田氏の本拠地とされていました。現在は武田神社となっていますが、水堀が残っているほか、神社の西側には、当時の城門跡や石垣が残っています。また、武田氏はいざという時は裏山にある要害山城に籠城していたと言われており、武田信玄はそこで産まれたとの言い伝えもあります。
甲府城は、躑躅ヶ崎館の後に徳川氏によって甲斐の中心として築かれた城です。甲府駅のすぐ傍に所在し、立派な石垣を有しており、今もその威容を見ることができます。筆者は仕事で甲府の裁判所に行く帰り道では、あえて道を一本外して甲府城の石垣を眺めた後、駅前の「小作」で美味しいほうとうを食べて帰るのがルーティンです。
●甲州ほうとう小作(株式会社甲州ほうとう小作)
http://www.kosaku.co.jp/
〈参照文献〉
西ヶ谷恭弘「定本日本城郭辞典」(秋田書店、再版、2001年)
黒田基樹「戦国北条氏五代」(戎光祥出版、初版、2012年)
市村高男「東国の戦国合戦」(吉川弘文館、初版第二刷、2012年)
西俣総生「東国武将たちの戦国史 「軍事」的視点から読み解く人物と作戦」(河出書房新社、初版、2015年)
小和田哲男「東海の戦国史-天下人を輩出した流通経済の要衝-」(ミネルヴァ書房、初版、2016年)
執筆者プロフィール:
日野 真太郎(ひの しんたろう)
弁護士。1985年福岡県生まれ。幼少時を中華人民共和国北京市で過ごし、東京大学法学部、同大学法科大学院、滋賀県大津市での司法修習を経て、2012年より東京で弁護士として執務。企業間紛争解決、中華圏を中心とする国際法務全般及びスタートアップ法務全般を取り扱う。趣味は城巡りを中心とする旅行で、全国47都道府県を訪問済。好きな歴史上の人物は三好長慶と唐の太宗。