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コラム

キルゾーン〜城は何のためにあるのか 第8回
城の立地が山から平地に降りてきた理由【後編】

日野 真太郎

城の立地が、山の上から平地に降りてきた理由としては、戦の変化も大きかったと考えられます。そもそも、源平合戦や鎌倉時代の武士の主な戦い方は馬に乗って弓を射る騎射でした。そのため、これらに対抗するには、馬が登ってこられない山に防御施設を設けるのが最も合理的です。

一方、応仁の乱のころから、足軽といわれる軽武装の歩兵が戦の主力になっていきます。彼らは、簡易な鎧(胴丸や腹巻)を着て、歩兵として戦うようになりました。そうすると、馬を意識する防御の必要性が下がり、防御施設を山に置く必要性は下がっていきます。
その後、16世紀中頃に日本で普及し始めた鉄砲(火縄銃)は、それまでの飛び道具の主力であった弓に比べ、あまり訓練しなくても利用できる点で革命的なものでした(注4)。

そのため、守備側も、鉄砲を活用できるようにしつつ、鉄砲による攻撃を受けることをも意識した防御施設を造るようになります。具体的には、ある程度の直線的な防御線があった方が鉄砲で撃退しやすいため、近代城郭にあるような横長の塀や門を造り、塀には狭間と言われる鉄砲を的に撃ちかけるための窓を設けるようになりました。

一方、攻撃側から鉄砲を撃ち込まれて防御施設が破壊されるのを防ぐため塀は厚くなり、門の前に直線的な通路を設けるような設計は避けられるようになります。このような点を考慮した城の立地場所としては、地形の制約が多い山より平地の方がいいと考えられたはずです。

以上の理由から城の立地が山から平地に移る流れが生まれたものと考えられます。
そして、こうした新たな流れは、築城技術とともに全国に広がりました。北は弘前城(青森県弘前市)や盛岡城(盛岡市)から南は熊本城(熊本市)や鹿児島城(鹿児島市)まで、どれも見た目が同じような城が築かれていることを不思議に思われたことはないでしょうか。

盛岡城の石垣(2015年5月)

いずれも築城されたのは約400年前ですが、どれも石垣があり、櫓や天守を備えているという意味で、同質的な機能を有しています。現代日本のように、通信手段や移動手段が発達していなかった時代背景を考えると当然とは言えません。

その理由は、天下人となった信長とその後の秀吉の勢力圏の拡大スピードが急だったことに関係があると考えられています。

信長や秀吉の部下は、新たに勢力下に収まった土地を任せられると、その地に新しく城を造ったり、奪い取った既存の城に手を加えたりしました。その際には、親分の信長や秀吉の築城術を当然模倣します。

信長や秀吉の味方に付いた徳川氏や毛利氏、上杉氏といった勢力も、安土城や大坂城を訪れた際に、そこで用いられている築城術が優れていると考えれば、模倣したはずです。築城術は、戦が恒常的に生じていた当時において、生き死にに関わる技術ですし、現代のように技術を盗んでも知的財産権の侵害になることもない訳ですから、いいものは取り入れようとするのは自然な流れでしょう。

このようにして、戦国時代には各地の勢力ごとにある程度オリジナリティがあった築城術も、最終的には織田・豊臣流のものに取って代わられたものと考えられます。

以上の説明からは、山の上の城が時代遅れで廃れたという印象を持たれるかもしれません。しかし、当時の為政者たる大名たちは、最新の技術を取り入れて、平地に大きな城を築くのが合理的だという結論を出したのであって、山の上なのか平地なのかといった視点で城を造っていたわけではありません。

例えば、秀吉が平地の伏見城と同時期に築いた名護屋城(佐賀県唐津市)は海に面する高台にあり、平地の城ではないことからも明らかなように、築城目的に合わせて城の立地を決めています。

逆に、それまでは山の上に拠点を置いた信長が現在の滋賀県を支配する際に利用した拠点として、安土城以外に、大溝城(高島市)、坂本城(大津市)、長浜城(長浜市)があります。これらは、全て琵琶湖の湖畔の平地にありますが、いずれも琵琶湖の水運を押さえるためそのような立地となったのでしょう。また、信玄が築いた海津城(長野市)や、畠山氏の高屋城(大阪府四条畷市)は、戦国時代であってもいずれも平地に所在します。

海津城(2010年3月)

つまり、為政者は目的にかなう城を造ろうとしていただけなのです。鎌倉時代以降は山の上に作るのが合理的だったのが、江戸時代の直前頃から、平地に大きな城を築くという選択肢が広がりました。そして、必要に応じて平地を選択するようになり、結果として合理性の観点から平城が選ばれることが多くなったのです。(注5)

実際、城を訪れると解説板に「この城を築いたXXは、当初この城から少し離れた○○に城を築くことを考えていたが、その後△△の理由により、この地に城を築くことにした」という記載を見かけます(注6)。

では、合理的な立地を定めた後、その立地を最大限生かすため、為政者たちはどのような工夫をして城を造っていったのか。次回はその工夫についてお話ししたいと思います。



(注4) 鉄砲の殺傷力は革命的だったと思われがちですが、一般的に当時の鉄砲の有効射程距離(殺傷能力を維持できる距離)が100m程度であるのに対し、弓は100mを超えるとされており、鉄砲の殺傷力がそれほど高いとは言えません。また、直線的にしか射ることのできない鉄砲に対し、山なりに射たり、火矢を射たり、鉄砲に比べて連射ができる(当時の鉄砲は、一発撃つと次発までに20秒以上を要する)等、弓には鉄砲に比べて利点も多くありました。そのため、鉄砲が普及したことによって弓が使われなくなったわけではなく、両者は違う飛び道具として使用されたと考えられます。

(注5) 鎌倉時代以前では、吉野ケ里遺跡は環濠集落で平地部にあります。一方、朝鮮半島・中国大陸からの外圧が高まった飛鳥時代終わり頃から奈良時代頃に築かれた朝鮮式山城や、私の地元の福岡に沢山ある神籠石系山城は、山の上に石垣を持つ山の上の城です。これらも、時代時代において、為政者によって合理的なスタイルが選択されているということの証左ではないかと思います。ちなみに、大野城(福岡県大野城市)の石垣は、1300年前に作られたとは思えないようなスケールの大きさで、一度訪問されることをお薦めします。

(注6) 井伊直政は、もともと現在の彦根城の北に位置する湖畔の丘の上に築城することを検討していましたが、その後現在の彦根城が位置する金亀山が築城の地に選定されました。また、関ケ原の戦いの後に出雲(島根県東部)に封じられた堀尾吉晴・忠氏は、当初、尼子氏が本拠とした月山富田城(島根県安来市)に入りますが、その後平地に位置する松江城(島根県松江市)を築城して移転します。

〈参照文献〉
『日本の城事典』千田嘉博著、ナツメ社、2017年



〈執筆者プロフィール〉
日野真太郎(ひの しんたろう)
弁護士。1985年福岡県生まれ。幼少時を中華人民共和国北京市で過ごし、東京大学法学部、同大学法科大学院、滋賀県大津市での司法修習を経て、2012年より東京で弁護士として執務。企業間紛争解決、中華圏を中心とする国際法務全般及びスタートアップ法務全般を取り扱う。趣味は城巡りを中心とする旅行で、全国47都道府県を訪問済。好きな歴史上の人物は三好長慶と唐の太宗。

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