郭・曲輪と関係の深い、虎口(こぐち)と桝形(ますがた)について説明します。
まず、虎口は、郭・曲輪(以下、「曲輪」で統一します)の出入口のことです。敵が最も取りついてくる可能性のある個所ですから、特に力を入れて防御する必要があります。中世山城では、虎口の出入口に急斜面を設けたりして、攻めにくくしていますが、近世城郭では、後述する桝形や櫓門、馬出しといったものを組み合わせて、難攻不落の防御施設を作り上げていて、城巡りの見どころの一つです。私が仲間と一緒に城巡りをしていて虎口を通る際は、「今死んだなあ……」なんて言い合ったりするくらい分かりやすいキルゾーンです。
次に、桝形は、虎口を土塁や石垣で囲んだスペースを言い、虎口と組み合わせて桝形虎口などと呼びます。これと二つの門を組み合わせ、外側の門を高麗門、内側の門を櫓門とするのが、桝形虎口の最終形です。高麗門とは、上から見るとコの字型に柱を組み、その上に三つの屋根を掛けた一階建ての門であり、櫓門とは、門の上に櫓を載せた二階建ての門を言います。
図示したものは、「内桝形」と呼ばれる曲輪の内部に桝形が設けられているものです。これと対置される概念として、曲輪の外側に桝形が飛び出している「外桝形」があります。
実際の例としては、以下のようなものがあります。
上の図で明白なように、攻め手は手前の高麗門を破らないと桝形内に進入できませんが、高麗門を攻撃している間は、左手の櫓から狙い撃ちされます。ちなみに、このように攻め手の横から攻撃できるような状態を作ることを「横矢をかける」といい、特に鉄砲の利用を前提とする近代城郭では横矢がかけられている箇所が多数あります。
攻め手が、高麗門を何とか破って桝形に侵入しても、右手の櫓門や、正面や左手の土塀から狙い撃ちされます。そのような状態で櫓門を攻撃して破らなければ、曲輪の内部に侵入できないという恐ろしい仕組みなのです。
現在各地に残っている近代城郭の虎口の多くは、桝形虎口です。門が1つしか設けられていないものや、1つめの門の前のスペースの正面と左手に土塀があり、右手に2つめの門が設けられているようなものもありますが、いずれも城におけるキルゾーンであることに変わりありません。
東京では、江戸城に大変立派な桝形虎口がありますので、通りかかった際にはぜひご覧ください。なぜ桝形虎口がそのような形をしているのかを知ってから見ると、違うものに見えてくるのではないかと思います。ちなみに、私は仕事柄、東京地方裁判所に出向くことが多いのですが、裁判所の高層階から桜田門を見下ろせるため、桝形虎口を空中から眺められます。そのため、裁判が終わった後は、桜田門を見てから帰ることがしばしばです。
馬出についても触れておきましょう。馬出とは、虎口の前に設けて、虎口の防御力を高める小さな曲輪を言います。下図は、上の桝形虎口につなげて馬出を設置した場合のイメージ図です。馬出を攻撃しようとする敵兵には、城内部からの横矢がかかっており、側面攻撃を受けることになります。
また、馬出に2つ門があることで、一方から出撃し、もう一方に取りつく敵を討ったり、虎口から出撃する城兵が、敵の射撃を受けずに馬出から移動したりできるため、戦術の幅が広がるのは間違いないでしょう。
馬出は当時の城の防御において有用と考えられていたようであり、馬出やそれに類似する防御施設は、東日本を中心に広く築造されています。特に、甲斐の武田氏は、半円型の馬出である「丸馬出」を設け、その前に半円型の堀(三日月堀)を設けることが多く、相模の北条氏は、コの字型の馬出である「角馬出」を設ける傾向があるとされ、両氏の旧領を支配した徳川氏の城でも馬出はよく用いられています。代表例として有名なのは、武田氏が築いた諏訪原城(静岡県島田市)で、見事な三日月堀と馬出を見ることができます。
ただし、最近の検証によると、これらは徳川氏が、武田氏が築いた諏訪原城を攻め落とした後に築いたものという説が有力になっているようです。
また、大阪冬の陣において豊臣方で奮戦した真田信繁(幸村)の真田丸も、馬出があったという説があります。他にも、時代は違いますが、五稜郭(北海道函館市)の半月堡も、馬出の一種であろうと思います。
〈参照文献〉
『城のつくり方図典』三浦正幸著、小学館、2005年
〈執筆者プロフィール〉
日野真太郎(ひの しんたろう)
弁護士。1985年福岡県生まれ。幼少時を中華人民共和国北京市で過ごし、東京大学法学部、同大学法科大学院、滋賀県大津市での司法修習を経て、2012年より東京で弁護士として執務。企業間紛争解決、中華圏を中心とする国際法務全般及びスタートアップ法務全般を取り扱う。趣味は城巡りを中心とする旅行で、全国47都道府県を訪問済。好きな歴史上の人物は三好長慶と唐の太宗。