真山メディア
EAGLE’s ANGLE, BEE’s ANGLE

テーマタグ

コラム

「世界」を読む no.14
漢字圏に生まれた幸せを噛み締める 最高レベルの冒険・歴史小説〜『両京十五日』より

加賀山 卓朗

昨年12月発売の『このミステリーがすごい! 2025年版』(宝島社)海外編1位の作品なので、何をいまさらと思われるかもしれないが、馬伯庸『両京十五日』(齊藤正高、泊功訳、早川書房)についてどうしても書いておきたくなった。

馬伯庸 著『両京十五日1:凶兆』(齊藤正高・泊功 訳、早川書房)

この『両京十五日』、いま望みうるなかで最高レベルの冒険・歴史小説だと思う。15世紀の明朝、北京から南京(このふたつが「両京」)への遷都を考えている皇帝に命じられて、皇太子の朱瞻基(しゅせんき/のちの第五代宣徳帝)が南京に派遣された。が、船で長江を下って到着かと思った瞬間、大災難に巻きこまれる。犯人は誰だ? その狙いは? 敵が北京で行動を起こすまでに十五日しかないことがわかり、朱瞻基は現地で知り合った捕吏の呉定縁(ごていえん)や、下級官僚の于謙(うけん)、女医の蘇荊渓(そけいけい)らと、ときに力を合わせ、ときに対立しながら帰還の長い旅に出る。

誠実で人間味にあふれる朱瞻基、口うるさいけれど忠義心が厚い于謙、やたらと強い敵たちなど、登場人物がみな個性的で強烈な印象を残す。ストーリーも、とくに後半ではミステリーの要素も加わって、まさに巻を措く能わずなのだが、個人的にもっとも感心したのは、物語のスケールの大きさだった。私事になるが、スケールのちがいというものを初めて体感したのは、アメリカのヨセミテ国立公園に行ったときだった。有名な巨岩のハーフドームやエル・キャピタンにしろ、滝やまわりの木々にしろ、写真から想像していた大きさの軽く2、3倍はあって驚いた。まさに「縮尺」がちがったのだ。それと同じことを『両京十五日』でも感じた。たとえば、南京の繁華街を描写したこんな場面がある。

長江に程近い外秦淮(そとしんわい)はやや構図に欠けるとはいえ、野趣がなくもない。これが場内の内秦淮(うちしんわい)ともなれば、十里もつづく歌楼や舞台、宵の頃には櫂の音に提灯の影、いっそう風光秀麗と言われる。寒さ厳しく味気ない京城と比べれば、まるで仙郷だった。

この一里は約580メートルらしいので、「十里秦淮」は約6キロ、中央線で言えば新宿から高円寺ぐらいまで延々とこういう風景が続くのだ。また、南京のはずれには、

留都の北東に大きな湖がある。それを官府では「後湖」と言い、民間では「玄武湖」とよぶ。その南岸は神策門と太平門の間にある城壁に接しているから、南京の城区に面しているとも言える。水域は広大で、五つの中州があり、黄冊を保管する架閣庫が十数棟も設置されている。このために朝廷は湖を閉鎖して民が住むことを許さない。湖面は幽深として静かだった。

「黄冊」というのは人民の家族構成や財産などを記した戸籍。それを保管する書庫が何棟も並んでいるのだから、日本の環境で思い浮かべるような「中洲」ではない。本書では、そこで敵味方の壮絶な戦いがくり広げられる。主人公たちがときに離れ離れになり、冒険ののちまた巡り会う展開では、昔夢中で観たテレビの連続人形劇『新八犬伝』を懐かしく思い出した。

翻訳についても言っておきたい。ふだん私たち翻訳者は、読者にストレスなく読んでもらうこと、わかりやすい日本語を書くことに腐心している。それはここ数十年の翻訳出版界の金科玉条だったと言っていい。ところが、本書の日本語はかならずしもわかりやすさをめざしていない(ように見える)のにスラスラ読めるのだ。たとえば、

鄭和は永楽の老臣、その人となりは忠直耿介(こうかい)、六韜三略(りくとうさんりゃく)の兵法を心得ており、いくども西洋に下るという壮挙で巨大な名声があった。あの山岳のような御仁が健在なら南京は大丈夫だ。

要するに、漢語や漢文の読み下しが多い(ゆえにページは黒々としている)のだが、単語や熟語そのものを知らなくても、漢字を見ればなんとなく意味がつかめる。その手があったかと翻訳上の「革命」のように感じたし、漢字を使う文化圏に生まれた幸せを嚙みしめたのだった。

というわけで、二段組の上下二巻で長いと思われるかもしれないが、読みはじめればあっと言う間の『両京十五日』、心からお薦めする次第です。




【執筆者プロフィール】
加賀山卓朗(かがやま・たくろう)
1962年生まれ。翻訳家。おもな訳書に、『スパイはいまも謀略の地に』(ジョン・ル・カレ)、『ヒューマン・ファクター』(グレアム・グリーン)、『夜に生きる』(デニス・ルヘイン)、『大いなる遺産』(チャールズ・ディケンズ)、『チャヴ』『エスタブリッシュメント』(オーウェン・ジョーンズ/依田卓巳名義)などがある。

あわせて読みたい

ページトップ