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コラム

在洛杉磯自言自語〜L.A.独白 第1回
—中国文学翻訳家が米国滞在を決断したワケ

泉 京鹿

中国・北京に16年間在住し、10年前に帰国後も精力的に中国の情報を日本に伝えてきた中国文学翻訳家が、家族とともにロサンゼルスに移住することを決意。コロナ禍の最中における引越の顛末、中国から遠く離れることへの葛藤、米中日の違いなど、自身の体験をもとに綴る(中国語タイトルの意味=ロサンゼルスでひとりごと)。

後ろ髪をひかれながら16年暮らした中国・北京から、出産のために東京に戻って10年目。まだ日本社会にもどこか馴染めず、リハビリ中の感覚が抜けていないうちに、今度はアメリカ・ロサンゼルスで暮らすことになった。会社員の夫がロサンゼルスに赴任することが決まったからだ。

東京と北京で別居を前提にスタートした結婚生活だったが、出産を機に私が東京に戻って3人家族となってからは、夫の単身赴任で別居という選択肢はもはや考えられなくなっていた。

夫も私も英語学習歴といえば大学受験止まりで、英会話はほぼ話せないに等しい。それでも、慣れないアメリカ生活に挑戦しようと前向きに考えたのは、世界にはさまざまな価値観が存在するということ、そして外から日本を見るということを、小学生の娘に身をもって体験してほしいという思いがあったからだ。

とはいえ、私自身の仕事のことを考えると少し悩んだ。まず物理的にアメリカは日本より中国大陸、香港、台湾から遠く、行く機会も減ってしまう。また、日本に戻ってから、非常勤とはいえ複数の大学で講師として授業をもっていた。

母校から始まり、自分が受験して落ちた大学や、受験を考えることさえなかった偏差値の高い大学でも教壇に立った。声をかけてくれた先生方の思いや接してきた学生たちの反応からわかるのは、多くの大学生にとって中国について学ぶ機会はいまだに決して多くはなく、知らないことも知るべきこともまだたくさんあるという現実だ。

だから、16年間の北京生活や中国文学の翻訳経験を元に伝えられる話があり、それをきっかけに考える機会を提供でき、また私自身の刺激となって新たな視点をもてるのは何より嬉しい経験だった。そんな場所を離れるのは残念ではあったが、非常勤である以上は基本的に1年毎の契約更新だから、そこにこだわっても仕方がない。

そして、ここ数年、海外の中国語翻訳者と交流する機会が増え、英語の必要性を強く感じていた。他国の翻訳家たちは母国語と中国語のほかに英語はもちろん、複数の言語に通じているのはごく当たり前だ。中国語の翻訳にまつわる問題も、白熱してくると英語での議論になる。英語力不足で積極的に議論に加われないのは残念だし、悔しかった。英語力があれば、中国、中国語への理解もさらに深まるのではないか。そんな自分本位のメリットも頭をかすめた。

そもそも現実的には、東京に戻ってから翻訳家として、大学非常勤講師としての私個人の収入は家計の足しになるどころか、ずっと赤字だった。夫に養ってもらっている身分で別居生活は難しい。何より、食の問題が深刻だ。可能な限り日々の3食はもちろん、娘のお弁当やおせち料理まで美味しい食事を家族のためにつくってきたのは、我が家では夫である。その夫は昨秋にロサンゼルスに赴任し、私と娘は学期の変わり目の3月に追いかけていくことになっていた。

4カ月間、娘と自分のために毎日3食きちんと料理して、夫レベルに近い優良な食生活を維持することは、私にとって困難を極めた。娘は、私のその努力に理解と同情を示しつつも、父親の料理を恋しがった。言葉が通じず、道具も食材もままならないはずの単身赴任中の夫が動画や写真で見せてくれる手料理は、相変わらず美味しそうだった。

中国語が少し話せたところで英語は話せない、稼ぎもない、料理もできない妻がそばにいても、夫が楽になるどころか負担が増えるのは間違いない。それでも娘のために夫は嬉々として料理をしてくれるだろう。娘の経験のため云々と言う前に、アメリカに行かないという選択肢はもはや私自身にはなかった。

しかし、新型コロナウイルス(COVID-19)の感染拡大で、海外への移動そのものが最大のリスクとなり、これまで以上に選択そのものに強い決意を迫られる事態となった。3月に予定していた渡航は一旦延期となり、結果的に出発したのは5月末のことである。かくして、新たな土地で家族3人の新たな生活が始まった。

執筆者プロフィール:
泉京鹿(いずみ・きょうか)
1971年東京生まれ。フェリス女学院大学文学部日本文学科卒。北京大学留学。訳書に、余華『兄弟』、郭敬明『悲しみは逆流して河になる』、王躍文『紫禁城の月:大清相国清の宰相陳廷敬』、閻連科『炸裂志』、九把刀『あの頃、君を追いかけた』、林奕含『房思琪の初恋の楽園』など多数。

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