コロナ禍一色だった2021年が終わり、22年の新年を迎えた。
「あけましておめでとうございます」の言葉が、日本中に降り注ぐ。
子供の頃からひねくれ者だった私は、小学生だったある時期「新年がなぜめでたいか分からないから、おめでとうなんて言わないし、年賀状も出さない」と言い、実行した。
礼儀知らずかつ日本人として失格!と非難されるような少年だった。
だが、当時、大人に聞いてもだれも「新年がめでたい」意味を説明してくれなかった。
結局、大人となり自分自身である答えを見つけた。
「悪いことをすべて去年においてきて、新しい年を迎えられたから『めでたい』のだ」と。「私は仏教徒だ!」と胸を張れる日本人はかなり少ないと思うが、大晦日の除夜の鐘は大切にしている。なぜなら、それによって「悪いこと」を水に流せるからだと思っている、いや思い込もうとしている。
それは、言ってみれば独特の歴史を刻んできた「日本人の知恵」だったのだ。
尤もこれは、完全に私の勝手な考えだ。
だが、日本社会では、「水に流す」ことがとても重要であるのは、間違いない。
閉鎖的な島国であるだけでなく、単一言語、単一文化という同調圧力の中で生きていくという宿命を、日本人は背負っている。常に圧力を受けているため、どこかでリセットしなければ、破滅してしまう。
だから、大晦日ですべてを水に流して、めでたい新年を迎えるのだ。
とにかく突き進む。反省はあまりしない。だって、最後はみなが水に流せば済むことだから――。この文化は、長い間日本の成長を支えてきた。
しかし、バブル経済が破綻した頃から、そんな文化は「無責任」だと見なされるようになってきた。
なぜなら、深刻な経済危機を招いた責任をとるべき人たちも、自分たちの「罪」を水に流そうとしたからだ。バブルは、経済史の中では、必然と言われる。人間の欲望を源にしている経済は、ある程度成長すると突然一気に膨れあがる。それは、もはや誰も止められない。多くの人はバブルに踊る側で束の間の至福を味わい、バブルが弾けた途端、夢から覚める。
20世紀後半になって日本は世界屈指の経済大国となり、グローバル経済も急拡大したことで、バブル崩壊は国家が立ち直れなくなるほどの深刻な被害を及ぼした。「ああ、良い夢だったね。また、一からやり直そう」では済まなくなったのだ。実際、日本はバブル経済崩壊から30年以上経った現在ですら、「立ち直った」とは言いがたい。
当時、膨張する経済を止められたはずなのに何もしなかった人たち、不正を承知で「ビジネス」を拡大した人たちの責任は、重大だ。彼らに責任をとらせるだけではなく、「同じ過ちを繰り返さない」ための対策をしっかりと構築しなければならない。
だが、実際はどうだろうか。バブル崩壊だけでなく二度の大震災、コロナ禍の間にも、責任ある立場の人たちの人為的なミスは続いているのに、相変わらず、時間の流れの中で、責任も対策も流されていくばかりだ。
気がつけば、首都圏などで、再び不動産バブルが沸騰している。
新型コロナウイルスも、新たな変異株の登場に世界中が戦き、日本国内でも徐々に緊張が高まっている。
人は失敗する動物だ。失敗はある程度致し方ない。だが、同じ失敗を繰り返さない、さらには、失敗を踏まえた対策を構築するという「失敗を水に流さない」姿勢が、年々重要になってきている。
だからこそ、今後は、「失敗を克服して新年を迎えられたから、おめでとう」と言える社会を目指そうではないか。