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対談

スペシャル・トーク第3回
『渋谷敦志×真山仁 「伝える」とは何か』
2019年6月1日@富士フイルムフォトサロン

真山 仁

2019年6月1日(土)、フォトジャーナリスト・渋谷敦志の20年にわたるアフリカ取材を振り返る写真展『渇望するアフリカ』(主催・富士フイルムフォトサロン)にて、ギャラリートークゲストとして真山仁が登壇しました。2人の出会いから、それぞれが現在に至る軌跡を語り合いながら、立場の異なる視点から「伝えるとは何か?」に迫ります。その模様を、全3回にわたり真山メディアで抄録します。

ソマリアから逃れて来た難民の少女 2011年 ケニア ©Atsushi Shibuya

第3回 『アフリカは可哀想なのか』

真山 最近、渋谷さんの言う「渇望」のようなものを「自分の肌で感じたい。見てみたい」という若い人が徐々に減っているのではと心配になっています。
例えば、海外旅行一つにとっても、私たちの学生時代では、バックパッカーで海外を放浪するのが珍しくありませんでした。
旅行本の『地球の歩き方』が、それをけん引していたのですが、その関係者とお会いした時に嘆いていたのが、「今、地球の歩き方が組むツアーで自由時間を設けると、利用客が集まらない。自由時間はいらない。全部日程を入れてください」と言われるそうなんです。
さらに驚いたのが、先方がガイドブックを見せてきて、「これに載っているところを半日で周れるようにしたい。インスタグラムで見た写真の場所で、同じ写真を撮りたい。会話は日本語をずっと使いたい。何なら、入管も横で通訳して欲しい」となってしまう。

渋谷 そういう「見たいものしか見ない」という感覚は、インターネットの使い方でも表れていると思います。知りたいと思うキーワードの検索結果だけを見て満足してしまうんです。
もう少し深く調べれば、ほかにも無数に答えが見つかるはずなんですけど、情報が豊富なようで、実はものすごく狭い世界だけしか見てないという現実があるのかなと感じます。
僕が自著で伝えたかったのは、今まで積み上げた自分の力や経験が圧倒されるような存在や世界があるから、ぜひ勇気をもって外の世界へぶつかっていって欲しいということです。

写真は不完全なメディアなんです。
カメラを持ってある土地に行って、人に出会って、それを撮らせてもらう。そして、撮った写真を誰かに見てもらうことで成立する世界なので、自分一人では成り立ちません。
逆を言えば、ネットや家にいるだけでは難しい出会いが、ちょっと外へ飛び出すことで世界が広がって、様々な心を揺さぶる出会いがあるかもしれないということを、若い人に知ってもらいたいです。
僕は幸いにも、今お話したような様々な経験をさせてもらって、先入観や固定観念のような自分の枠が壊されて、何が起こっても割と大丈夫だろうと思うまでになりました(笑)。

真山 少し視点を変えますが、こういった写真を見ると多くの人はかわいそうだな、日本人でよかったなと思う人がいますよね。
ポスターやテレビの広告でも、まるで募金しろとでも言うような写真や映像が使われていたり……。私は、この「かわいそう」という感覚に、「あなたに何がわかるんだ」という気持ちになるのですが、写真を撮っていて、そういう気持ちを持ったりしますか?

渋谷 うーん、そういった感覚はあまりないです。むしろ、畏怖や畏敬の念の方が強いですかね。心の中で手を擦り合わせて拝むような感じでしょうか。

真山 それは、撮ることで自分のあり方を教わっているということですか?

渋谷 最初はうまく言葉にならず、ただすごいなと圧倒されていたことが、そこに苦しみや痛み、喜びとか、生きることそのものがあると次第に分かってくるんです。なぜなのかはよく分からないのですが、かわいそうという感覚とは違います。

真山 実際にその目で見たからこそ得られる感覚だと思います。我々は、最初に見た印象で物事を決めつけてしまう傾向にあります。
「ああ、これはかわいそうな国だ。暑くて、貧しくて、お腹が空いている子たちがたくさんいる国だ」という前提でものを見ると、何を目にしても、それが強く残っていてイメージを変えられない。
でも、実際に現地へ行くチャンスがあったら、もしくは、留学や働きに日本へ来ている外国の人に会って話を聞くことができたら、全然違うと分かるのに、そういった交流も少ない。
これだと、自分が知っている範囲でしか、社会や外国、そして人も分からなくなってしまいます。

渋谷 ソマリアでの経験が、まさにそれでした。見ると聞くのとでは大違いです。
僕が行った当時、ソマリアでは飢饉が起きていました。
飢饉というのは、国際社会の基準の中で、食糧難として最高最悪レベルの状態のことです。放っておいたら、毎日人がバタバタと死ぬ状況です。
でも、国民みんなが飢えているのかと思いきや、まったくそうではなかった。
食料は溢れているし、人は普通に生活していて、いったいどこに飢餓が起きているのかという状況だったんですが、じつは、ソマリア社会の中で、すごい格差があったんです。
飢餓とは、政治闘争によって引き起こされる人災でもあるので、ソマリア全体がひとくくりに飢餓なのではないんです。
それを見た時に「アフリカ=○○」、「ソマリア=○○」という単純な構図ではなく、自分の価値観を壊して修正して、きちんとした姿を発信しないといけないという思いがアフリカに行く度に起こります。

内戦で荒廃したモガディシオの街並み 2011年 ソマリア ©Atsushi Shibuya

真山 日本人にとって、今この瞬間にも、地球で様々なことが起きているという感覚は持ちにくいと思います。島国ゆえに、外国と接するにも、身構えないとなかなか相対することができない。
東日本大震災発生から間もない時期に、被災地を訪れました。被害の状況を見ながらも、頭の片隅にニジェールや今まで見てきた資料の内戦の凄惨な光景が頭をよぎりました。 
災害と戦争はいかにも違うようだけど、生きている人々にとっては同じなんだと感じました。一つだけ違うのは、戦争は止めることができるはず。災害は、いくら万全に備えても、それを上回る被害が起きてしまう。
この違いに気づくのも、実際に現地に足を運んだ人しか分からない。パソコンを見ながら納得しているだけでは、気付くことができないものだと思います。

別の話を例にすると、ニジェールは、コンロが目の前にあるのでは思うくらいに暑かったんですが、同じ暑さでも、ミャンマーは、湿度が高すぎて息ができず、おぼれているように感じました。
また、アフリカでは、燃えるような暑さも木陰に入ると途端に涼しくなるので、できるだけ早く育つ木を植える工夫をしているそうなんです。実際に行くと木陰の有難さが身に染みて分かります。

渋谷 身体感覚で世界に触れると忘れないですよね。
経験を通さないと、簡単には手に入らないものがある。何か負荷をかけて、ある種の痛みを背負わなければ、開かない感覚がある気がします。

真山 「なぜ日本人が、アフリカに?」とよく聞かれますよね。

渋谷 そうですね。イギリスにいた時にも、よく聞かれました。
「お前くらいのレベルのカメラマンなら、イギリスにはごまんといるよ。なぜアフリカに行くのか。むしろ、北朝鮮や中国とか、おまえのテリトリーのところを撮れよ」と言われていました。
今は少しずつ本や写真を発表することで、なぜアフリカに通い続けているのかということが伝わればと思っています。
でも、アフリカだからこうだというわけではなく、アジアも、南米も、ひとつの地球全体を見ていきたいんです。地域で区切るのではなく、旅を住処にするような生き方を続けられたらいいと思っています。

近いうちにもう1回、真山さんともアフリカに行きたいです。

真山 はい、ぜひ行きましょう。

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